明日はどっちだ?
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UNCHAIN DAYS チタ〜??〜イルクーツク
2011.09.16 Friday
なかなか更新が進みません。
忍者ブログのアプリが書きかけですぐ落ちるんだもの。
チタを離れる。いわゆる沈没とは違うが出発予定一ヶ月前に免停食らって
さらに一ヶ月出発遅らせて秋になってしまった僕。
幸運にも序盤からいい出会いがあって本当によかった。
トニャさんが、「私は別な所に用事があるんだけど、とにかく付いてらっしゃい」と。
シベリアはすっかり秋。
いわれるがまま、トニャさん一行のパジェロについて行く。
パジェロがまた速い。おそらくアフリカンツインやR1200GSだろうと、
地元民のプラドやパジェロなんかにゃ叶わないだろう。
ひーこら付いていく僕。ガスが持ちませんて、、、
んでガス欠。予備ガス持っていたから良かったが、これじゃ先が思いやられる。
現地時間11時、気温は二度(モッチーさん素敵なカラビナありがとう!)
キックスタートはホットスターターオフでもかかる。
先のカフェで待っていた彼らに伝える。
僕「このペースには着いていけないから先に行って下さいよ」
トニャ「そうはいかないわ。じゃあ、あなたが先に走ればいいのよ。私達は付いていくから」
僕「しかし…」
結局僕が前を走ることに。後ろからプレッシャーを感じる。
大体200kmぐらいの所で給油しながら、あとどれくらいかと尋ねる。
僕「まだまだ遠いのでしょうか」
ト「心配しないで、あと100kmぐらいよ。」
合わせて500kmか。なんか、距離感が麻痺してくるな。
日本だと東京〜大阪ぐらい?
毎日こんなのがこれから待ち受けるのかと良い思いをした後の僕は気が重くなった。
トニャさん一行
途中、「あなたはどうしても寄らなければならない所に連れていくわ」とトニャさん。
ハハトイという場所の日本人墓地。
満鉄社員、日本人拘留者を弔うためのモニュメント。
ここハハトイ村には、第52収容所ハハトイ(じーちゃんばーちゃん、その他人生の諸先輩方、間違って居たら訂正してください。)という場所がありました。
以下、遺骨収集に参加された方のサイトの抜粋
6年前のロシアでの遺骨収集に参加した時、私は遺骨収集の現場の広い大地に手をつき、まだロシアに眠っていらっしゃる全ての日本人の方々に語りかけました。「必ずまた参ります。その時には、皆様のお体を祖国日本にお連れ致します。」と固く約束しました。
ロシアでの遺骨収集には、特別な思い入れがありました。それは、ミャンマー遺骨収集派遣引渡式の時に、御遺族の方に「戦争の犠牲者は戦闘で亡くなった人ばかりではないんだよ。是非シベリア抑留の事も知って欲しい」と仰って下さった方がいたからです。すぐに図書館に行き勉強をしました。勉強を重ねれば重ねる程、深い悲しみで心が溢れました。酷寒の中での過酷な強制労働、栄養失調や衰弱により多くの方々が亡くなったと言う事実を知れば知るほど胸が痛み、涙が溢れました。もし私がその当時に行って沢山の暖かい食事や毛布を57万人の方々にお持ちする事が出来たら・・心から願いましたが、現実には出来ません。私に今出来る事は、ロシアに行って御遺骨をお迎させて頂く事なんだと強く思い、ロシア・沿海州での遺骨収集に参加ししました。そして18柱の御遺骨をお迎えする事が出来ました。
沿海州での遺骨収集は一生忘れられません。冷たい土の奥深くから、胸の上で両手を合わせて私の方に首を少し傾けて眠っていらっしゃった御遺骨をお迎え出来た時の事を、暗いお墓の奥深くに入り、御遺骨を地上にお上げする時に手が震えた事を、そして最終日に「また必ずロシアに参ります。」と英霊の皆様に約束した時の事を。
この度、やっと約束を果たす機会を頂きました事をとても感謝しております。
〈シベリア抑留について〉
ここで、今回の遺骨収集のお話をする前に、遺烈を読まれている学生さんや中学生・高校生の皆さんにもシベリア抑留について知って欲しいと思っていますので、お話をしたいと思います。
今から60年以上前、日本はアメリカ、イギリス、中国、などと戦争をしました。そして開戦から3年8ヶ月後に日本は降伏しました。
降伏の数日前に、ソ連は日本とソ連の間で交わされた中立条約を破棄し、満州などに侵攻を開始しました。そして戦争は終わっているのに、ソ連は多くの日本人をソ連の国内に連れて行って抑留し、強制労働を強いたのです。
日本人抑留者達は、冬にはマイナス30~60にもなる酷寒の中で森林伐採や鉱山作業、鉄道建設などの大変辛い作業で酷使されました。そして多くの日本人が、食料欠乏での飢えや伝染病、衰弱、作業中での事故により亡くなりました。5万5千人もの方々が亡くなったのです。
その亡骸はきちんと葬られる事もなく、大きな穴を堀り、裸のまま次々に投げ積まれて行きました。70人近くの日本人の亡骸が同じ穴から発見された事もある程です。
そして未だ多くの日本人の方々の御遺骨がロシアの土の中に埋まっています。
私達もはこれからもこの事実を若い世代の皆さんにも伝えて行かなければならないと思っています。
以上、抜粋
日本人が拘留されていた事はもちろん、アホ丸出しな僕も知っていたが、こんな事実は知らなくて、なんとも悲しくなる。
そんな彼らが居て、今の僕らの生活が当たり前で、ありふれていて、このアホタレはロシアをオートバイで走っていられるのです。
直接モニュメント製作に携わった方がたまたま近くに居合わせた。
彼の一言は忘れられない。
「あなた達には本当に申し訳ない事をしてしまった。国を代表して謝罪します。」
胸の中が熱くなった。固い握手をしてお別れ。
僕は特別右翼ではないのだが、異国を旅するという事は、その国の日本代表でもあるのだ。恥ずべく事をしてはならない。そう思うのだった。
そして、目的地へ到着…
どこだここ?山の中にほったてられヨボヨボのじいさんが歩き回っている
不安になる僕、トニャさんに話すと「心配しないで、ここは老人ホーム、あなたは今日ここに泊まるの」
!?
しきりにホスピタルホスピタルというから、混乱した僕は「俺病気じゃないよ!」とわけの分からない事を言い出す。
「大丈夫よ。心配しないで。彼らはあなたの面倒を見てくれるわ。」
大丈夫かいな…
慌ただしく進むので、全景写真とれず。ロシアの老人ホームの食堂。
お茶でも如何と言われて戴く。ロシアではお茶がご飯の意。おそらくロシアの老人ホームに泊まって、ご飯を戴いたのは僕が初めてではなかろうか。
室内。かなり清潔。ロシアはこの二つベッドスタイルが定番みたいだ。
子供たちはいつも僕にやさしい。
彼、アレクサンドラはとてもいい奴。近くの裏山に連れて行ってくれた。
裏山とはいえ、規模はかなりでかい。
そんな不思議な体験をして、やはり疲れたのかすぐ眠りに落ちる。
翌朝、これまたトニャさんの友人が迎えにきた。
「街を抜けるまでエスコートしよう」
老人ホームの皆にお別れ。慌ただしく準備(こればっか)
赤ジャージの彼女は少しだけ英語が話せる。
彼らはここでお別れ。ロシアの挨拶なのか?握手に始まり握手に終わる。お辞儀はないものね。
イルクーツクまで後約500km。暗くなる前にと先を急ぐ。
途中ウランウデという大きな街にぶつかるが、用事はなく、急ぎ足。
しばらく走るとバイカル湖が見えて来た!が、早く着きたいので通り過ぎた(勿体無いとか言わないの!)
しばらく走り、イルクーツクまであと50kmの表記!あと少し!
バイカル湖を抜けたあと、しばらく激しい峠にぶつかる。箱根は椿ラインを走った事がある方はご存知だろうが、あれに近い。某会社のN本氏のCBにちぎられた遠い日の僕のZZR1100。今のトラなら負けてなかったろうとかってに思ふ。
過積載で段ベリ三分山のオフタイヤだから楽しむ余裕なし!
ニーグリップとヒールグリップしたままリーンインで曲がる。
峠を越えたら街並みが見えてくる。明日はすぐに出発したかったのでガスを入れ、道路に戻るがおまわりさん、待ち兼ねていたのか止められる。
わし、なんもしてへんでー!
なんて思っていたらガソスタの入り口が一方通行!
んなもん!ここ私道ちゃうんか?
しかし、融通きかず。70を提示。
ん?700ルーブル(2100円程度)でええのん?と差し出す
すると、「ニェーーーーット!!!貴様は7000ルーブルだ!!!!!この無免許野郎!!(憶測)」
ひええ、いきなりキレる人間て、何処にでもいるのね!
しかし、7000ルーブルなんて!払えません!
僕「あんな、おまわりさん、わし5000ルーブルしかないねん、負けてやおまへんか?」
ポリ「ん?さよか、ほなこれでええわ。さあなら、イポンスキー」
ギギギ…やられた!3000にしときゃ良かった!
その後、無事に「地球の彷徨い方」で目ぼしをつけていたホテルへ。
しかし、値段が倍以上。なんでなん?と聞くと
「今、バイカル湖のシーズンやねん。うちが一番経済的やで。あははん」
ギギギ… またしても。お巡りと合わせて9000ルーブル…
まぁ、今までさんざいい思いしたし、この程度ならよしとしましょか。
次回、孤独なキャンプ イルクーツク〜クラスノヤルスク編へ続く。
忍者ブログのアプリが書きかけですぐ落ちるんだもの。
チタを離れる。いわゆる沈没とは違うが出発予定一ヶ月前に免停食らって
さらに一ヶ月出発遅らせて秋になってしまった僕。
幸運にも序盤からいい出会いがあって本当によかった。
トニャさんが、「私は別な所に用事があるんだけど、とにかく付いてらっしゃい」と。
シベリアはすっかり秋。
いわれるがまま、トニャさん一行のパジェロについて行く。
パジェロがまた速い。おそらくアフリカンツインやR1200GSだろうと、
地元民のプラドやパジェロなんかにゃ叶わないだろう。
ひーこら付いていく僕。ガスが持ちませんて、、、
んでガス欠。予備ガス持っていたから良かったが、これじゃ先が思いやられる。
現地時間11時、気温は二度(モッチーさん素敵なカラビナありがとう!)
キックスタートはホットスターターオフでもかかる。
先のカフェで待っていた彼らに伝える。
僕「このペースには着いていけないから先に行って下さいよ」
トニャ「そうはいかないわ。じゃあ、あなたが先に走ればいいのよ。私達は付いていくから」
僕「しかし…」
結局僕が前を走ることに。後ろからプレッシャーを感じる。
大体200kmぐらいの所で給油しながら、あとどれくらいかと尋ねる。
僕「まだまだ遠いのでしょうか」
ト「心配しないで、あと100kmぐらいよ。」
合わせて500kmか。なんか、距離感が麻痺してくるな。
日本だと東京〜大阪ぐらい?
毎日こんなのがこれから待ち受けるのかと良い思いをした後の僕は気が重くなった。
トニャさん一行
途中、「あなたはどうしても寄らなければならない所に連れていくわ」とトニャさん。
ハハトイという場所の日本人墓地。
満鉄社員、日本人拘留者を弔うためのモニュメント。
ここハハトイ村には、第52収容所ハハトイ(じーちゃんばーちゃん、その他人生の諸先輩方、間違って居たら訂正してください。)という場所がありました。
以下、遺骨収集に参加された方のサイトの抜粋
6年前のロシアでの遺骨収集に参加した時、私は遺骨収集の現場の広い大地に手をつき、まだロシアに眠っていらっしゃる全ての日本人の方々に語りかけました。「必ずまた参ります。その時には、皆様のお体を祖国日本にお連れ致します。」と固く約束しました。
ロシアでの遺骨収集には、特別な思い入れがありました。それは、ミャンマー遺骨収集派遣引渡式の時に、御遺族の方に「戦争の犠牲者は戦闘で亡くなった人ばかりではないんだよ。是非シベリア抑留の事も知って欲しい」と仰って下さった方がいたからです。すぐに図書館に行き勉強をしました。勉強を重ねれば重ねる程、深い悲しみで心が溢れました。酷寒の中での過酷な強制労働、栄養失調や衰弱により多くの方々が亡くなったと言う事実を知れば知るほど胸が痛み、涙が溢れました。もし私がその当時に行って沢山の暖かい食事や毛布を57万人の方々にお持ちする事が出来たら・・心から願いましたが、現実には出来ません。私に今出来る事は、ロシアに行って御遺骨をお迎させて頂く事なんだと強く思い、ロシア・沿海州での遺骨収集に参加ししました。そして18柱の御遺骨をお迎えする事が出来ました。
沿海州での遺骨収集は一生忘れられません。冷たい土の奥深くから、胸の上で両手を合わせて私の方に首を少し傾けて眠っていらっしゃった御遺骨をお迎え出来た時の事を、暗いお墓の奥深くに入り、御遺骨を地上にお上げする時に手が震えた事を、そして最終日に「また必ずロシアに参ります。」と英霊の皆様に約束した時の事を。
この度、やっと約束を果たす機会を頂きました事をとても感謝しております。
〈シベリア抑留について〉
ここで、今回の遺骨収集のお話をする前に、遺烈を読まれている学生さんや中学生・高校生の皆さんにもシベリア抑留について知って欲しいと思っていますので、お話をしたいと思います。
今から60年以上前、日本はアメリカ、イギリス、中国、などと戦争をしました。そして開戦から3年8ヶ月後に日本は降伏しました。
降伏の数日前に、ソ連は日本とソ連の間で交わされた中立条約を破棄し、満州などに侵攻を開始しました。そして戦争は終わっているのに、ソ連は多くの日本人をソ連の国内に連れて行って抑留し、強制労働を強いたのです。
日本人抑留者達は、冬にはマイナス30~60にもなる酷寒の中で森林伐採や鉱山作業、鉄道建設などの大変辛い作業で酷使されました。そして多くの日本人が、食料欠乏での飢えや伝染病、衰弱、作業中での事故により亡くなりました。5万5千人もの方々が亡くなったのです。
その亡骸はきちんと葬られる事もなく、大きな穴を堀り、裸のまま次々に投げ積まれて行きました。70人近くの日本人の亡骸が同じ穴から発見された事もある程です。
そして未だ多くの日本人の方々の御遺骨がロシアの土の中に埋まっています。
私達もはこれからもこの事実を若い世代の皆さんにも伝えて行かなければならないと思っています。
以上、抜粋
日本人が拘留されていた事はもちろん、アホ丸出しな僕も知っていたが、こんな事実は知らなくて、なんとも悲しくなる。
そんな彼らが居て、今の僕らの生活が当たり前で、ありふれていて、このアホタレはロシアをオートバイで走っていられるのです。
直接モニュメント製作に携わった方がたまたま近くに居合わせた。
彼の一言は忘れられない。
「あなた達には本当に申し訳ない事をしてしまった。国を代表して謝罪します。」
胸の中が熱くなった。固い握手をしてお別れ。
僕は特別右翼ではないのだが、異国を旅するという事は、その国の日本代表でもあるのだ。恥ずべく事をしてはならない。そう思うのだった。
そして、目的地へ到着…
どこだここ?山の中にほったてられヨボヨボのじいさんが歩き回っている
不安になる僕、トニャさんに話すと「心配しないで、ここは老人ホーム、あなたは今日ここに泊まるの」
!?
しきりにホスピタルホスピタルというから、混乱した僕は「俺病気じゃないよ!」とわけの分からない事を言い出す。
「大丈夫よ。心配しないで。彼らはあなたの面倒を見てくれるわ。」
大丈夫かいな…
慌ただしく進むので、全景写真とれず。ロシアの老人ホームの食堂。
お茶でも如何と言われて戴く。ロシアではお茶がご飯の意。おそらくロシアの老人ホームに泊まって、ご飯を戴いたのは僕が初めてではなかろうか。
室内。かなり清潔。ロシアはこの二つベッドスタイルが定番みたいだ。
子供たちはいつも僕にやさしい。
彼、アレクサンドラはとてもいい奴。近くの裏山に連れて行ってくれた。
裏山とはいえ、規模はかなりでかい。
そんな不思議な体験をして、やはり疲れたのかすぐ眠りに落ちる。
翌朝、これまたトニャさんの友人が迎えにきた。
「街を抜けるまでエスコートしよう」
老人ホームの皆にお別れ。慌ただしく準備(こればっか)
赤ジャージの彼女は少しだけ英語が話せる。
彼らはここでお別れ。ロシアの挨拶なのか?握手に始まり握手に終わる。お辞儀はないものね。
イルクーツクまで後約500km。暗くなる前にと先を急ぐ。
途中ウランウデという大きな街にぶつかるが、用事はなく、急ぎ足。
しばらく走るとバイカル湖が見えて来た!が、早く着きたいので通り過ぎた(勿体無いとか言わないの!)
しばらく走り、イルクーツクまであと50kmの表記!あと少し!
バイカル湖を抜けたあと、しばらく激しい峠にぶつかる。箱根は椿ラインを走った事がある方はご存知だろうが、あれに近い。某会社のN本氏のCBにちぎられた遠い日の僕のZZR1100。今のトラなら負けてなかったろうとかってに思ふ。
過積載で段ベリ三分山のオフタイヤだから楽しむ余裕なし!
ニーグリップとヒールグリップしたままリーンインで曲がる。
峠を越えたら街並みが見えてくる。明日はすぐに出発したかったのでガスを入れ、道路に戻るがおまわりさん、待ち兼ねていたのか止められる。
わし、なんもしてへんでー!
なんて思っていたらガソスタの入り口が一方通行!
んなもん!ここ私道ちゃうんか?
しかし、融通きかず。70を提示。
ん?700ルーブル(2100円程度)でええのん?と差し出す
すると、「ニェーーーーット!!!貴様は7000ルーブルだ!!!!!この無免許野郎!!(憶測)」
ひええ、いきなりキレる人間て、何処にでもいるのね!
しかし、7000ルーブルなんて!払えません!
僕「あんな、おまわりさん、わし5000ルーブルしかないねん、負けてやおまへんか?」
ポリ「ん?さよか、ほなこれでええわ。さあなら、イポンスキー」
ギギギ…やられた!3000にしときゃ良かった!
その後、無事に「地球の彷徨い方」で目ぼしをつけていたホテルへ。
しかし、値段が倍以上。なんでなん?と聞くと
「今、バイカル湖のシーズンやねん。うちが一番経済的やで。あははん」
ギギギ… またしても。お巡りと合わせて9000ルーブル…
まぁ、今までさんざいい思いしたし、この程度ならよしとしましょか。
次回、孤独なキャンプ イルクーツク〜クラスノヤルスク編へ続く。
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COMMENT
- イルクーツク手前の峠
-
一昨年10月中旬に、あられ混じりの中、逆走車に遭遇して BMWK1200RSを放棄したのが、イルクーツク手前のあの峠の頂をこえたあたりでした。無事に横断中のようで何よりです。クラスノヤルスクまでの道はかなり舗装がひどいところがありますので、ご注意下さい。一昨年は9/15-16にシベリアで初雪(大雪)が降っています。くれぐれもお気をつけて。
- 無題
-
更新一番拝見…快適だね。
ハハトイ日本人墓地、墓参ありがとう。
丁度お彼岸も近かかったし地下の英霊も日本人のお参りを喜んでおられる事でしょう。
爺も太平洋戦争の一兵士だった、そこに眠るご英霊も生きておられれば爺と同じ歳頃の方々なのです。
トニャさんもよく案内してくれましたね。
一般の人達が日本には悪い事したと義理堅く陳謝の挨拶までして、本当は当事の政治の頂点にいた人のやった事を今の人が歴史的真相を知り、国を代表して謝るなどとは、良識あるロシア人もいるのだと感銘しました。
とかく、爺の年代の者はロシアは悪だという観念が強いのですが、15ちゃんが日本代表で陳謝を受け固い握手をかわした事に感激しました。
さて、放浪の旅だから色々のトラブルはもう当たり前のことでしょう、が、爺の一番心配は冬将軍のことです。今日新潟は33度の残暑で熱中症で搬送される者が多数出ている始末です。昔はこんなことは経験したことは無かった。温暖化ですね。シベリアにも多少は影響して未だ雪の姿は見えないのでしょう。シベリア、9月というと雪がちらつくということを子供ころ聞いたものだから。其処はなにしろ世界一低温の所ですから計画をたて、勿体ない所が多いでしょうが、賢く移動してね。
話しは変わりますが、このブログには音声ファイルは添付出来ないの、動画は重くなるから、短い音声付き写真なら尚よい、音声が入ると臨場感が何倍にもなる。
では、次の更新を待っています。
安全な旅を祈る
niigata jii baba
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プロフィール
HN:
Minohara
性別:
男性
職業:
ワールドルンペン
趣味:
music & motorcycle
自己紹介:
このたびの災害により、被災または避難された皆様におかれましては、心からお見舞い申し上げます。
1986年生まれ
三年半勤めた建築写真事務所を退社後、
2011年8月27日よりオートバイで大陸に乗り込む。
1986年生まれ
三年半勤めた建築写真事務所を退社後、
2011年8月27日よりオートバイで大陸に乗り込む。
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